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執筆者の写真 Jiro Sakamoto

第27話、実の父が他界してしまった話

約2年9ヶ月にわたる世界一周の旅を終えて、日本に帰ってきた。


2年9ヶ月のほとんど西洋とラテンの国々、そしてつるんでた人達はだいたい西洋人バックパッカーばっかりだったこともあり、帰ってきたときの初期の初期は、日本人とは思われなかった。

ふるまいなどがかなり西洋人化してしまっていたから。

いきなり初対面で握手を求めるなんて、ノリの良い友達の友達くらいなものなのに、親父の仕事の付き合いの人にまで自己紹介で握手を求めたり・・・まあだいたい、みんな笑ってくれていたんだけど。

これも分かる人にはわかると思うw


最初はすべてのことに違和感だらけだった。

・日本語通じる(当たり前だw)

・田舎なのに道がきれいに舗装されている。そしてゴミがなくキレイ。

・どこの店に入っても接客が不自然な笑顔なので気持ち悪い。


最初は色んな事に新鮮で楽しかったけれどそれもだんだん慣れていってくると、今までずっと海外を旅していた日常が嘘だったかのように・・・まるで遠い昔の出来事のように思えてきてしまう。


僕は、しばらくは実家の建設会社で働いていた。両親と一緒に暮らし、両親の部下として、しばらく過ごしていた。


時々、休暇を取って日本中行きたいところに行ったりしていた。あと車の免許を取るために自動車学校にも通ったりした。


北海道の雪まつりや、屋久島では帰国後に最も会いたかった人に屋久島の頂上で会えるというドラマのような再会、種子島でロケット発射みたり、地震の後の東北のボランティアにも行ったりした。



半年くらいしたとき、5月14日。

自分の人生でも一番大きかったイベントが起こってしまう。


それは実の父の事故死のお知らせだった。


最初はなんの冗談かと思いながら

すぐに病院に駆けつけると親戚達が集まっていて、すぐにレスキューとして駆けつけた消防士である弟のシャツは親父の血で真っ赤に染まっていて


その時にすべてが理解できた。



振り返ってみると親父の生き様ってのは本当にすごかった。

子供たちの前ではメチャクチャなことも多かったけれど、一つの仕事を死ぬまで続け、愛妻家で、4人兄弟をちゃんと育てあげて。

古いタイプの人間であるのに、型にハマったようなことは言わずに、子供達には好きなことは何でも伸び伸びとやらせてくれた。

だけど本当に苦労ばかりで大変な人生だったと思う。


通夜式、葬儀には沢山の人が参列してくれて、親父の人脈のすごさを実感したり

本当に信じられないくらいの人だかりだったので通夜式の挨拶では緊張しまくりでした。


そして最後に親父へ

「今までありがとうございました。最後に親父と半年間一緒に過ごせて、一緒に仕事が出来てよかったです。親父が知ってるように母ちゃんも強い人だし、息子達もみんなもう自分で何でも考えれるほど自立してるし、こっちのほうはもう親父が心配することは何もありません。

いつも忙しい人でこんなにゆっくり休めることもなかっただろうからゆっくり休んでください。

そしてこれからは・・・・というかこれからも今まで通り

『親父、こんな素晴らしい世界に産んでくれて今まで育ててくれてありがとう、親父のおかげで俺は毎日最高に充実してるよ!』

と言いつづけれるような人生を歩いて行きたいと思います。59年間お疲れ様でした。」

(当時のSNSより引用)



もっとも不思議というか偶然という言葉では片づけれない出来事だったのが、僕は自衛隊で6年間、それに加え、海外放浪約3年間。


9年間も家族とは疎遠になっていたのに、親父の死ぬ最後の半年、一緒に住んで3食ともにし、一緒に仕事をしていた。そういう偶然とは思えない引き合わせ。


そして親父は死ぬ直前にはGWの短期旅行で遠くにいた兄貴に会いに行ったり。

最後にお茶摘みをした後に温泉を楽しみ。


まるで自分の死期が分かっていたかのような行動だったということだった。


経験がある人は共感できるかもしれないけど。

どういうわけか、自分の親父の死の場合に関しては、死んでしまった。というよりもどこかに旅立っていってしまったという感覚なんだ。


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